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埋もれていた戦前の画家・丸井金猊に光/芸工展2017まちかど展覧会レポートその①

美しい独特の作品に魅せられて

毎年、芸工展まちかど展覧会はたくさんの企画が出ていて、なかなか全部回りきることができないのだが、一昨年、友人から「戦前の東京宝塚劇場の階段ホールに華麗な壁画(※1)を描いた画家、丸井金猊(まるい・きんげい)の展示がある。戦後忘れられていたけど、小学館の美術全集に作品が収録されて再評価の声が高まっている。美しい独特な作品、ぜひ見に行って」と声をかけられた。とても美しい作品だったのを記憶していたので、今年もまた見たいと思い、千代田線根津駅から言問通りを鶯谷方面に5分ほど上ったところにある「谷中M類栖」を訪れた。

画家がいてすばらしい作品がある。

それだけですべての名作がリアルタイムで世に出るというわけではない。ゴッホ、ゴーギャン、モディリアーニなど没後に作品の価値が認められた画家もいる。必ずそこには、それらの作品を高く評価し信じる人がいる。

戦時中に志半ばで画家への道を諦めた日本画家・丸井金猊の作品を再発見し、管理し、修復し、展示し続け、優れた日本画家として再評価されるに至るまでの仕事を担ってきた、お孫さんの丸井隆人さんに、展覧会場の谷中M類栖でお話を伺った。隆人さんはフリーのウェブデザイナー。大学でメディアリテラシー教育の授業も受け持たれている。

丸井隆人さん

祖父の作品を再発見

1979年、金猊氏が亡くなった時、隆人さんは小学校3年生。そのころ丸井さん一家は三鷹に住んでいた。隆人さんは晩年に再び絵筆を握り始めた祖父の姿を見ており、低学年ながらも祖父が日本画家としては思い通りにならなかったことをなんとなく知っていた。

金猊氏の書斎には『壁畫(へきが)に集ふ』という屏風作品が半分閉じられた状態で部屋の一角に置いてあり、毎日目にするせいか、ただの壁のような感覚で、広げて全部見ようという気にはならなかったそうだ。

95年、隆人さんの祖母が亡くなり、遺品整理を始めると、蔵の天井裏から表装される前の絹本が無造作に百貨店の包装紙にくるまれた状態で数点出て来た。お中元の空箱からは東宝劇場の壁画を含む屏風や見たこともない作品の下絵が多数折り畳まれて出て来た。

その下絵の鉛筆や墨で描き込まれた強い筆致を見て、それまでただの壁のようにしか見ていなかった屏風が、隆人さんにとって初めて「作品」として立ち現れてきたのだという。

昭和11年ごろの丸井金猊

そして、その時から「なにかせねば!」と思い始める。97年、三鷹市美術ギャラリーで自主企画の展覧会「丸井金猊とその周辺の人たち展」を開催。金猊作品以外にも東京美術学校時代(※2)の同級生の作品や金猊氏が筆を置いてから約25年勤務した神奈川県立神奈川工業高校工芸図案科(のちの産業デザイン科)の教え子で著名デザイナーとなった生徒たちの作品が並んだ。

その後何回か自主企画展を続けたが、三鷹を出ることになり別の場所を探しているときに、「芸工展」のある谷中であれば1年に1回は展覧会ができると思い、谷中に土地を見つけ、2004年に家を建て、1階を展示スペースとする「谷中M類栖」が完成するに至る。この屋号は、金猊氏の作品の落款にあった「M-Louis」( 「M」を「ま」、「Louis」を「るい」と仏語読みすれば「まるい」となる )に漢字の当て字をして名付けた(※3)。「芸工展」には06年から参加開始。

「谷中M類栖」入口付近

08年、金猊氏の故郷である愛知県の一宮市博物館から声が掛かり、特別企画展「いまあざやかに 丸井金猊展」が開催される。この展覧会で、丸井金猊の名と作品は多くの美術関係者の目に留まるところとなった。

2010年~11年、金猊氏が教鞭をとっていた神奈川工業高校が創立100周年にあたることから氏の教え子の作品を展示する記念展が2年越しで開催され、1年目は金猊作品も一緒に展示したが、2年目は出品数が増え、教え子の作品のみの展示となった。金猊氏は教え子を大切にしていて、教え子も大いに氏を尊敬していた。

2012年、屏風にカビが生え、作品の傷みも出てきたため、伝世舎(「芸工展」にも参加している修復工房)に作品を委ねた。そして13年には「丸井金猊∞屏風修復」展と題して、修復した実物の屏風と修復前の写真を展示する企画展を開き、隆人さんの企画力が発揮される。

シカク展出展作品

コンセプト色の強い企画展はその後も続き、14年「馬」をテーマにした「金猊馬考」展、16年「植物」をテーマにした「丸井金猊 植物圖展」と続いていく。そして今年17年は、「丸井金猊のシカク展」。作品の中にある様々なシカクを発見して楽しんだり、金猊氏の四角四面な性格が読み取れる妹さんの詩を展示したり、金猊氏の視覚を検証する言葉あそびのようなテーマの展示だった。

前後するが15年には、小学館の「日本美術全集」に屏風作品『壁畫に集ふ』が掲載された。電子書籍化著しい昨今の流れで、紙媒体の美術全集が発刊されるのはこれが最後であろうといわれる中、基本図書として最後の重要資料に滑り込んだ意義は大きい。今や専門家筋でも「日本画家・丸井金猊を知らないとモグリと言われる」という。そして一般の人にもそれなりに浸透してきているようだ。ただ、今もって「なぜ掲載されたかはわからない」と隆人さんは笑う。

作品の中に古今東西をめぐる風を通わす

一昨年も今年も谷中M類栖の入口を入ると、正面には大きな屏風画が展示されていた。次々と展示を観に訪れる人たちに、隆人さんは金猊氏の孫で、芸工展で毎年展示していることなど説明するが、正面の屏風は特に丁寧に説明する。このことが、何も知らないで訪れた人たちにも、丸井金猊という画家にあっという間に、親しみを持たせてしまう。

今年は、正面の大屏風には、仏前結婚式と思われる場面が描かれている。タイトルは不明。昭和11年頃に描かれたのではないかという。法隆寺の百済観音そっくりな像の隣には若い男性、これは花婿だろう。その橫に赤いドレスの女性がいてこれが花嫁なのか、それとも背後にもう一人別の外国人の女性が立っていて衣装からするとこちらの方が花嫁なのか。だれとカップルになっているのかわかりにくい。少し離れてまた別の女性と少女が立つ。観音像を挟んで反対側にもう一人の女性。女性の衣装には様々な観音像からの引用が見られ、すべての人物が仏像のようにも見えてくる。花は女性が手にしているものも飾ってあるものも全て菊の花だ。菊の花の生けられた白地レキュトスと言われるギリシャの白い壺は人が亡くなった時に使われるものだという。それが結婚式に? もしかしたらこれは葬式なのか。下絵には人物の上にそれぞれ名前が記され、赤いドレスの女性には霊子と意味深な名前が付けられていた。

日本画らしい緻密さ、色彩の美しさが溢れる作品の中に、不思議な要素がたくさん含まれているのが、丸井金猊の作品だ。

隆人さんは、丸井金猊の作品の魅力を、次のように語った。

「器用さが裏目に出た側面もあるとは思うが、線描の緻密さと多彩色を誇示しつつも、画に静謐さと古今東西をめぐる風を通わそうとしている。その横断意識の揺れにおもしろさがあり、いつまでも古びそうにない」

「日本画の世界は師匠がいて、流派や画壇の中で評価を高めていくことが多い。金猊は東宝劇場の壁画においても小林一三に直談判したり、独自のルートを切り拓こうとしていたように思われる。時代が悪くなることで時流からは外れ、戦争中に埋もれてしまっていたのではないか」

隆人さんがいなければ、そのまま、この画家と作品は忘れ去られてしまったかもしれない。

隆人さんは続ける。

「芸工展はこれからも続けて行きたいと思っています。続けていくことで他所から別の展示や企画参加の声がかかったらいいなと期待しています。近現代の日本画の研究者はもちろん、古美術、デザイン、アニメ、ファッション、そのほか予想外のものと結びついて金猊作品が拡がっていく。それを見たら四角四面な祖父も笑ってくれることでしょう」

それは今は亡き、日本画家・丸井金猊と丸井隆人さんの共同事業となるのだと思った。(稲葉洋子)

注)

※1東京宝塚劇場階段ホールの壁画『薫風』は昭和12 年(1937年)、27歳のときの作品。残念ながら劇場の火災時に焼失していて、残っているのはセピア色の写真と下絵のみである。

※2東京美術学校は現在の東京藝術大学。同期の杉山寧、川本末雄、吉原正道の作品を展示した。

※3「M類栖」の漢字の当て字は英語読みの「ルイス」の方を取って、「栖」の字には「すみか」の意味が込められている。


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