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根岸と谷中、高低差を足で実感、歴史に思いをはせた2時間/まちづくりたいとうの「地理学的まち歩き」

「足の裏で地形の違いを感じて下さい」。そんな言葉から始まった「NPO法人まちづくりたいとう」が企画したまち歩き企画。下谷鬼子母神周辺の風物詩、入谷朝顔まつりのさなか、出発地は、かつて足しげく通っていた「SOOO Dramatic!」だった。

表通りの言問通りは混んでいるので裏通りから出発。路地裏にはインバウンド向けだろうか、民泊があちこちにあって驚かされる。言問通りに戻り、鶯谷南口へ上がる坂道と、JRの線路を越える言問通りの高架が見えるところで「この先から上野台地となります」と、まちづくりたいとう理事長の毛塚雅清さんが解説する。まちづくりたいとうは毎年この時期にまち歩き企画をしており、通常は根岸近辺が多いそうだが、今回は上野台地と根岸低地の両方を2時間かけて歩く「地理学的まち歩き」だ。縄文前期には東京湾が入り込み、貝塚などの遺跡もあるという。

まずは根岸低地をぶらり。「この辺はおせんべい屋さんが多いんです」と、「うぐいす通り」を歩きながら根岸地区のガイドを務める小孫さんが言う。「手児奈せんべい」の手前では、「手児奈のおかみさんはなんでも詳しくてお話好きなので、たくさん教えてくれますよ」と言う。

付近には音無川という石神井川の支流が流れていたが、今は暗渠になっている。御行の松の付近にあるマンホールに近づくと、ゴーッという水音が聞こえた。「これは音無川の流れる音なんですよ」。付近には段差もあり、暗渠ではない川であった時代がしのばれる。

おかみさんが店先の花に水やりをしている昔ながらのとんかつ屋「花とく」さんとか、「鶯谷ズーズーⅭ劇場」とか、古い木造の家や、「ヴィーガンギョーザ」の店とか、なんだか面白そうで昭和的な建物にたくさん出あう。

そうこうするうちに、ホテルが建ち並ぶホテル街に入り込む。かつて鶯谷といえばラブホテル、というイメージだったが、このエリアは女子会プランとか、「宿泊新プラン」とかいう看板もあって、いろんな使われ方をしているようだ。

まもなくして「子規庵」の前に着いた。東京都指定史跡であり、正岡子規が明治35年に亡くなるまでの8年余りを過ごした家だ。「この道は古地図のままの道で、夏目漱石ら文人たちが歩いた道です。坂の上の雲の舞台です」。子規庵のパンフレットには「心が元気になる場所。」と書いてあり、若い人も多く訪れるようだ。

向かいには、画家・書道家の中村不折の住居だった台東区立書道博物館があり、付近には昭和の爆笑王、林家三平のネタ本や愛用品が展示され、落語も聞ける「ねぎし三平堂」がある。これらがめぐれる「文人の道」を過ぎると、寛永寺本坊で公務を執られていた宮が、息抜きにこられた屋敷「御隠殿跡」に到着。ここからJRの線路を挟んで谷中へと続く坂が「御隠殿坂」と呼ばれ、いまはJRの広い線路をまたぐ橋だが、よく見れば昔は踏切でつながっていた坂の続きが見える。

ここからのガイドは地元にお住いの高橋さん。
上野台地に上がると、谷中墓地。都立霊園なので宗教に縛られることがなく、お墓なのに鳥居がそこここに見られる。渋沢栄一のお墓、徳川慶喜のお墓と有名どころをめぐるが、「ディープなところを紹介するのがこのまち歩きなので」と言われながら向かったのが、天王寺五重塔跡。

もともとは江戸時代の1644(天保元)年に建てられたが、大火で焼失し1791(寛永3)年に再建されたが1957(昭和32)年に放火により焼失。「40代の男性と20代の女性の心中事件だったらしいです」。看板には書いていない解説を聞くのはおもしろい。幸田露伴の小説「五重塔」のモデルにもなったそうだ。

登録有形文化財の建物をカフェなどに活用している霊園入り口の花屋「花重(はなじゅう)」や、銭湯の建物をリノベーションしたギャラリー「SCAI THE BATHHOUSE」、古民家3棟をリノベーションした「上野桜木あたり」や、いまや有名な古民家カフェ「カヤバ珈琲」など、霊園から東京藝術大学方面へ向かう道はリノベーション通りと言ってもいい。

東京藝術大学を通り過ぎ、東京国立博物館より手前の角にあるのが、京成電鉄の旧博物館動物園駅へと降りる駅舎入り口。京成上野から日暮里までの間、上野公園の地下に、今は使われなくなった駅が今もある。駅舎入り口は普段は閉鎖されているが、藝大生の作品を展示するギャラリーなどに使われることもあるとか。

左折してすぐ左が国立国会図書館国際子ども図書館。存在は知っていたが、来たのは初めて。もとは明治時代に建てられた帝国図書館で、明治期ルネサンス様式の堂々たる建物だ。戦後国立国会図書館の支部図書館だったが、2000年に国際子ども図書館として開館し、普通の人も出入りできるようになった。「以前はとてもとても、一般人が入れる場所ではありませんでした」

突き当りは寛永寺の霊園で、徳川家の要人が眠っている墓所だ。このあたりは上野台地の縁。一行は鶯谷駅へ下りる「新坂」の手前で立ち止まった。「このあたりは貝塚など遺跡がたくさんあるんです」と毛塚さん。明治16年に発掘調査された貝塚から、あまり見たことのない土器が出土していたという。翌年、現在の文京区弥生町の貝塚から似たような土器が出土した。これが縄文土器ではなく新しい土器だと判明し、「弥生時代」と命名されたわけだが、「もしこちらの貝塚の土器が縄文時代のではないと先に判明していたら、『新坂時代』になっていたかもしれませんよね」と笑う。

ふと見上げると何かのモニターがある。些細な豆知識だが、鶯谷駅南口は狭くてタクシーが止まれないため、新坂上にタクシープールがあり、駅前をモニターで見られる。この日はタクシープールにタクシーはなかったが、モニターには確かに駅前が映されていた。

台東区とまちづくりたいとうが作成した「鶯谷まち歩き手帖」表紙より

鶯谷駅周辺は縄文時代は海だったという。新坂の上から根岸低地を眺めおろすと、縄文時代から江戸時代、現代までの変遷が感じられるような気がした。トリビア満載の2時間ウオークだった。(敬)

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