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光圀さんが暮らしたこともある!?歴史的建造物が白山に

文京区白山、児童館の裏手に歴史的建造物があるのをご存じだろうか。江戸時代からあるカギ型街路に面した「新町館」。関東大震災(1923年)のとき、地下室を建設中だったという古い洋館で、登録有形文化財にもなっている。建物と地域の歴史を学ぼうという会がこのほど、白山東会館で開かれた。

主催は文京もちもち。「もちつもたれつ=もちもち」が名前の由来だそうで、まずは白山地域、ひいては文京区を活性化する目的で活動している区民団体だ。新町館の勉強会には周辺住民ら30人ほどが集まった。実は新町館は三宅家住宅ともいい、文京もちもちメンバーでもある三宅邦明さんの住まい。「曽祖父が建てた洋館だが、私自身は20年前に白山に住み始めた。昔はどんなまちだったかを知り、通りがかりに挨拶できるような地域のつながりができるといい」と話す。

新町館の建物については、文京区内の建物の歴史に詳しい建築家鹿野正樹さんが解説。この一帯は江戸時代の譜代大名阿部家の土地だったが幕府に納められ、明治期には宅地として開発された。新町館の前でカギの手に曲がる街路は、江戸時代からあることが絵図などから確認できるという。ここに明治期に住み始めた三宅さんの曽祖父の三宅長策さんが母屋の裏に住宅兼法律事務所として大正末期に建てたのが新町館だ。当時としては画期的な鉄筋コンクリート造の地上3階、地下1階の建物で、モルタルをたたきつけた凹凸のある「ドイツ壁」や、縦長の窓、軒下の装飾が特徴的だ。玄関の両脇にある柱は一見大理石風だが、こてで描いた左官工法だという。ドイツ壁も左官仕事だ。

鹿野さんによれば、建材としてのコンクリートはローマ時代からあり、押す力には強いが、引っ張られる力には弱い。19世紀終わりごろ、引っ張りに強い鉄筋を入れたコンクリート造が登場し、パリのアパートや、日本では三井物産横浜支店などで使われ始め、かつての丸ノ内ビルヂング(1925年)や歌舞伎座(1924年)、文化アパートメント(1925年)なども鉄筋コンクリート造だった。だが住宅に使われる例は少なかった。「新町館は最初期の鉄筋コンクリート造住宅。また、当時多かった田の字型に居室が並ぶ屋敷の設計と異なるプランであることも新しい」と鹿野さんは指摘する。地下室にボイラーがあってセントラルヒーティング方式をとり、居室にボタンがあって押すと女中部屋のベルが鳴るという装置もあり、設備面も画期的だった。

三宅邦明さんによると、東京大空襲では母屋や土蔵が焼失し、新町館も窓枠が焼けただれてしまったが、板をはって戦後の一時期5家族25人ぐらいが暮らしたという。その後住む人がなくなって荒れ果て、幽霊屋敷とまで言われて取り壊すことになったが、たまたま消息不明だった親族が新町館を頼りに訪ねてきて何十年ぶりかの再会を果たしたことがきっかけで取り壊しを免れ、1983(昭和58)年に現代風にリフォームされた。画廊や歯科医院だったこともあるが、現在は三宅邦明さん一家が住んでいる。

歴史を知ったあとは見学会。たまたま散歩に出たところだったという作家の森まゆみさんも飛び入り参加した。邦明さんの叔父の三宅光圀さんも駆けつけ、「ここで生まれ育ったが、来るのは何十年かぶり」と感慨深げだった。


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