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屋敷森なんてもんじゃない!江戸時代の自然そのまま「千駄木ふれあいの杜」

「〇〇の森公園」「〇〇自然公園」と呼ばれる公園はたくさんある。たいていは大木や草花が多く、小路が整備された快適な空間だ。「千駄木ふれあいの杜(もり)」というので、都心のオアシスのような、ゆったりとした緑地を思い描いて、散歩がてら行ってみた。地域では「屋敷森」と呼ばれ、300㎡ということで、さほど広くない。根津神社の裏門から団子坂にある鴎外記念館を経由して、駒込方面へと続く細い道は「薮下通り」と呼ばれる。千駄木ふれあいの杜はその薮下通りの根津神社から日本医科大学病院の建物を過ぎたあたりの山側にある。

路地の突き当りに小さな鉄製の扉があり、ここが入口。中から大木の葉が鉄柵を超えて外にあふれている。足を踏み入れるのがためらわれるほど、木々が、葉が鬱蒼としていてうす暗く、草いきれのためか湿っぽく、むっとした空気に包まれていた。木陰にベンチという想像は吹っ飛ぶ。入口付近には、「大量の蚊への注意」「火気厳禁」「外部からの生き物の持込み禁止」などの注意書がいっぱいだが、最近加えられたコロナへの注意書きもあるのはなんだか笑える。

扉の中に一歩入ると、細い茶色い土の道が杜の奥に続いている……が、すぐ目の前で木々の枝や葉で覆われ、見えなくなる。

ほったらかしではなく道や植物の危険箇所に定期的な整備がなされていることは、歩いていくとわかる。が、自然が残るように最低限の手入れにとどまっている。案内板には、2014年の大雪でシンボルツリーのスダジイの4本の幹のうちの2本が倒れたが、「倒木が朽ちて自然にかえっていくままにまかせています」と書かれている。木が倒れて朽ちるとそこに新しい木が育つ、それを森の倒木更新といい、「都会の真ん中で倒木更新がみられる貴重な森」なのだそうだ。

千駄木ふれあいの杜ができた経緯は案内板にもあるが、谷根千工房の山﨑さんが開園当時熱心に関わっていて、『谷根千67号』の記事になっているとご本人から聞いた。記事によると、「江戸の中頃まで、本郷台や上野台から、根津の谷(藍染川)に向かってなだらかな樹林帯が広がっていて、薮下通りの西側に、江戸の面影を伝える森が残っていた。ふれあいの杜となっている場所の持ち主は、太田道灌の子孫にあたる人」だったそうだ。

「1457年に江戸城を築いた太田道灌は、徳川三代将軍家光のころ千駄木に屋敷を得たが、そこからの景観はすばらしかった。太田資宗(すけむね)の時代(1610-71)には儒学者林鷲峰(はやしがほう)がその眺めを詩に、狩野安信が画を添えた絵巻が、『太田備牧駒籠別荘八景十境詩画巻』として、文京ふるさと歴史館に残っている」

明治になって大名屋敷はなくなり、高台が江戸時代よりずっと縮小された太田子爵の屋敷となったといい、「崖下には漱石の『吾輩ハ猫デアル』の猫が拾われた太田ヶ原と太田ヶ池があったが、今はもう埋め立てられている」「その屋敷の庭にある斜面三百坪を文京区が借り区民に開放する『市民緑地第一号』となった」

市民緑地とは、記事によると、都市緑地法に基づく制度で、約百坪以上のひとかたまりの樹林地を対象に、文京区が所有者と市民緑地契約を結び、保全しながら区民に公開していく場所とのこと。千駄木ふれあいの杜(屋敷森)はその第一号になるそうだ。「長い間自然に任されてきた状況を大切に、整備は最小限にして公開は昼間のみ。鍵の開閉などの管理、運営には市民ボランティアを募集する」というもの。

「案内板にもありますが、数年前に正式に文京区に寄贈という形になり、都市林となっています」。管理しているのは、「千駄木の森を考える会」という住民組織で、庭師や植生の専門家がいるすごい集団だと、山崎さんから聞いた。

園内の植物や野鳥の説明は、案内板にある。武蔵野台地の東端に位置し、本来の植生である常緑広葉樹林に戻りつつあるそうだ。こんな都会の中に、ほぼ原形を保つ自然林があるのは、すごいことではないか。しかしあまりに鬱蒼としていて入るのはおそるおそる。しかも足早に一巡りした。これが「もり」というものならば、物語に出てくるような大きな森を進んだ「少年や少女たち」は本当に勇敢だ、と思わず感心しながら巡った。(稲葉洋子)


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