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明治創立の跡見女学校、「柳町遺跡」が物語る生活のリアル/150年の跡見学園の歴史をひもとくシンポジウム

現在は茗荷谷駅近くにある跡見学園。明治、大正、昭和初期まで柳町小学校の場所にあったことをご存じだろうか。柳町小学校改築に伴い、2020年に第一次、2023年~24年に第二次の発掘調査が実施され、出土品から当時の生活のリアルが少しずつ明らかになってきている。その成果と共に、跡見学園の歴史を振り返る「文化遺産がつなぐ過去と未来~跡見女学校 明治・大正・昭和の暮らし」がこのほど、跡見学園女子大で開かれた。

跡見学園の前身、跡見女学校は1875(明治8)年、日本人による初めての私立女子校として開校し、今年は創立150年にあたる。校舎は当初神田猿楽町(現在の千代田区西神田2丁目)にあったが、生徒数の増加で1888(明治21)年小石川柳町(現在の文京区小石川1丁目)に移転してきた。校舎のほか、池や寄宿舎、創立者跡見花蹊(かけい)の住居があった。

明治25年「東京文人専門人名」の小石川区の枠に跡見花蹊の名がある

跡見学園女子大観光コミュニティ学部准教授の小関孝子さんの発表によると、跡見花蹊は1840(天保11)年生まれで、創立時にすでに書画や漢学に優れた人として著名な人物だったという。同世代の著名人としては福沢諭吉(1835年生まれ)、渋沢栄一(同い年)、伊藤博文(1841生まれ)がおり、津田梅子(1864年生まれ)や樋口一葉(1872年生まれ)より一世代上だった。「女子教育の黎明期の黎明期に創立したのです」。華族の娘たちが多く通っていたという。

卒業生による機関紙「汲泉」は明治から今日まで発行され続けている

花蹊は校舎を柳町に移したときすでに48歳。そのころ、教え子だった跡見李子を養女にし、のちに李子は校長となる。花蹊は1926(大正15)年に85歳で亡くなった。柳町の校舎は増改築をしてきたが手狭になったため、1933(昭和8)年に小石川大塚町(現在地)に移転した。

柳町小改築に伴い文京区教育委員会が実施した調査で発掘したのは現在の柳町小の敷地内の主に千川通りに面する一角で、江戸時代の旗本屋敷の遺構もあったという。跡見女学校時代の遺構としては、当初は大きな池と建物が1棟あり、その後大池が埋め立てられ、北側に寄宿舎、中央に校長宅が建てられた。建物の基礎を支えるために地中に打ち込まれた木製の杭が出土した。その上にレンガを積んで基礎にしていたようだ。現物が会場に展示されていた。

発掘にあたったテイケイトレード株式会社埋蔵文化財事業部の小野麻人さんは、当時の写真や文献などと照らし合わせ、第一次発掘の成果を解説した。大きな池があった初期の時期、明治25年には花蹊が「池の辺の桜の花の散そめて水の上にもつもるしら雪」と詠み、秋にはカエデの紅葉が見られたようで風流だったようだ。大池の周りでは園遊会や地蔵祭といったイベントも多かったらしい。明治37年には「此日、池の掃除、家内一挙して魚を捕ふ。うなぎ沢山也」という記述もあり、うなぎもいたようだ。

小野さんが注目する遺物として、歯磨き粉の蓋を紹介した。「小石川 中村正修製造 薬歯磨」と書いてあり、「花蹊先生の歯磨粉だった可能性が高い」という。花蹊の日記に「中村正修氏え歯の療治に行。」との記述があり、「文献資料と出土遺物が合致する稀有な例」だという。

このほか、子どもが池に落としたのか、拳銃型玩具が出土した。女学生の持ち物とは考えにくいため、跡見家にいた花蹊の甥ら男児のものだったと推測しているという。出土品は1890年米国製の鋳鉄玩具とほぼ同じ形をしており、「当時としてはとてもハイカラなおもちゃだったはず」。

万年筆、鉛筆や硯といった女学生が使っていたと思われるものや、櫛や花瓶、化粧水を入れる瓶など、生活のリアルが伝わってくる出土品も多くあった。建物の建築過程などもわかってきているといい、第二次の発掘調査についても、2年後ぐらいには報告書が出る予定だそうだ。

柳町時代の1919(大正8)年、花蹊80歳の賀として建てられた書斎「不言亭」は大塚キャンパスを経て現在も跡見学園女子大新座キャンパスに残っている。また、新座キャンパスには花蹊記念資料館があり、創立150周年記念企画展として「跡見花蹊と跡見女学校―紡がれる歴史と伝統―」が12月5日まで開かれている。詳細はサイトで。(敬)

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