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小さな「私のガラクタ美術館」から大きな世界が見える/免疫学者・多田富雄の骨董品を「芸工展2021」で展示

大きな美術館では、ガラス越しに、人の頭と頭の間から、ちらとしか見られない美術品。それがすぐ目の前で、好きな時間じっくり見られる。質問があれば主催者に問いかけ、心になじませ、どんどんその骨董が好きになってくる――。10月2日、3日、狸坂文福亭で「私のガラクタ美術館」が開かれた。谷中、根津、千駄木地域で始まった「芸工展2021」の一企画だ。

ビルマの佛頭、エジプト土器、ギリシャ黒絵陶器、古代メキシコ 女の土偶、ローマガラス、伝河内作 小面(能面)・・・。免疫学者、多田富雄(1934~2010)が世界中から収集した骨董品が、堅苦しくない感じで並べられ、それぞれに歴史や手に入れた時のことなど、多田によって書かれた記事が置かれた。

多田は茨城県結城市に生まれ、千葉大学医学部卒。東京大学教授に就任した際、本郷に家を建て、亡くなるまで暮らした。主催者で、多田の長女、岩部幸(こう)さんは、「実家にはこういう美術品が並んで飾ってあって、父が亡くなってからは、家族以外に見られることがあまりなくて。美しいものがたくさんあるので、みなさんに見ていただきたい」と、展示会を企画した。多田の妻で幸さんの母、式江さんも医師。多田の長男、久里守(くりす)氏も医師だ。

左から幸さん、式江さん、久里守さん

世界に名だたる免疫学者だった多田は、能作家であり小鼓も打ち、大佛次郎賞など数々の受賞歴もあるなど、多才だった。式江さんによれば、免疫の勉強を始めたのは千葉大の学生時代。ユニークな病理の先生から、教科書を読んでもわからないよ、「論文は読むな。自分でやった実験だけを信じよ」と言われ、兎の鼻に卵白を注射し続ける実験をやったら、1年くらいで自己免疫疾患のためあちこちに病気が出てくる。その研究から免疫学の世界に入ったそうだ。大学院に進み、「学会で鋭い質問をしていた若い先生」のもとに飛び込み研究。その先生が渡米し、研究助手にと声がかかってコロラド州デンバーにも渡った。実験を通じた研究の世界で研鑽を重ね、1971年、38歳の時「サプレッサーT細胞」を発見。「私が生まれたころです」と幸さんは言う。39歳で千葉大の教授になり、2年後東大の教授に乞われたそうだ。

多田富雄氏

研究の傍ら、能や小鼓など古典への造詣を深めた。「学生の頃から小鼓が大好きで、デンバーにも鼓を持っていったのですが、鰹節が粉になるくらい乾燥していて、鼓も粉になる危険があり、休止していました」と式江さん。帰国し、ちょうど田端に鼓の先生がいたのでそこへ通って、「苦情が来るくらい毎日ずっと練習していました」。能が好きで、学生時代からしょっちゅう通って覚えて、「自分でも能を書いていましたよ。私も結婚してからよく一緒に行きました。言葉が聞きとれるのに10年くらいかかりましたね」。幸さんも、「書や、デッサンなど絵も描いていて、よく小さい頃の私の似顔絵を裏紙に描いていました。能面も素人ながら、木を切り出して、胡粉(粘土状の絵の具)や膠(にかわ)を溶かしては、小面を作ったりしていましたね」と懐かしむ。

「若い人と話すのが大好きで。年に4回くらい我が家でパーティーを開いて、30人くらい集まる。それがね、研究の話からパチンコの話、能がいかにおもしろいかという話をして、結局はみんな騙されて見に行くんですよ。行ってみると眠くなって」と式江さんは笑う。記憶力が良かった。「『僕は謡曲全部舞台を観て覚えた』って。読んではいないのね。耳がよくて音楽もすごいし、テレビでこの人のアクセントがどうのこうのと、事細かにうるさかったですね。料理の腕前もよく、私は主人から料理を教わりました」と楽しそうに振り返る。

骨董品はどのように集められたのだろうか。

「私も一緒にイタリアへ3回、ドイツへ2回行きました。あとは主人一人で。行きたくなると友達に手紙書いて、学会に招待してくれって!」と式江さんは笑う。「年に4、5回行っていました。2001年は正月に沖縄、2月にインド、3月にオランダ、5月にニューヨークに行って。6月に倒れたのです」。展示した3倍くらいは家にあるという。式江さんは「骨董品を集めるのは私も好きなんですよね、楽しみに待っていました」。幸さんも「ごちゃごちゃに戸棚に積んであります」と笑う。「一個一個見ることはあまりないのですが、子どもの頃から見ていて、やっぱり惹かれるものはあって。グレゴリオ聖歌(讃美歌のようなラテン語の手書きの譜面)の羊皮紙があって、それは私がもらいたいと思っています」とにっこり。

脳梗塞で倒れてからはリハビリに通いながら執筆活動に専念、2010年4月に亡くなった。毎年、多田富雄を偲ぶ「こぶし忌」が開かれているという。

エジプト/ウシャプティノの像と護符、北魏時代仏像、元時代仏像、仏像(タイ)、ブラックトップ エジプト ナカダ時代 土器、イタリアの壺、メソポタミア土偶、ローマの土器、大宮大和作 邯鄲(かんたん)男(能面)・・・ひとつひとつ骨董品を見て記事を読んでいたら一日中没頭できそうだ。多田が書いたこれら骨董品の記事は、1995年から約2年間「感染 炎症 免疫」という医学雑誌に掲載され、後に、「私のガラクタ美術館」(朝日新聞社)として出版された。

その中で多田は以下のように書いている。「ガラクタの思想、それは小さな断片から大きな世界を見てしまう創造力の世界である」「自分の眼を信じ、創造力を働かせ、ガラクタの背景に広がる巨大な世界を見てしまおう。そうすることによって、ガラクタを所有する喜びをかみしめることができるはずだ。それは世界を所有した喜びなのだ」

幸さんは、「若い頃から詩を書いたり、能をやったり、父は芸術の方が好きだったのかな。そんな話は親子ではしませんでしたが、父の書いたものを読むとそんなことを感じます」と語る。「免疫の仕組みを解明していくこと、新しい発想を生み出すことは、医学的な知識だけでは出来なかったことだと思います」

臓器移植をテーマにした「無明の井」という医学と文化が融合した能作品を作ったり、「INSLA」という自然科学とリベラルアーツを統合する会を設立したり。「きっと父だからこそできたと思います。研究者というより文化人ですね」と結んだ。(稲葉洋子)


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