通勤・通学・観光。人の出入りが激しい駅も、一歩出て町に足を踏み入れると、そこにはいくつも路地があり、民家や商店が並び、そこに住む人々の活気が感じられる。そんなまちにある一軒の民家、がらがらと玄関の戸を開けると、左手、目に飛び込んできたものにびっくり。珍しいものをお持ちの方は全国津々浦々たくさんいるが、長い人生で、自宅にこんなすごいものをお持ちのお宅に伺ったのは初めてだ。
千駄木在住の、河原木博さんのお宅には、一階の和室に能舞台がある。千駄木能舞台と呼ばれるそこは、模型ではなく正真正銘の能舞台だ。能舞台の大きさというのは、京間の三間四方(1辺約6メートル)と決まっているが、河原木さんの家の舞台は、公式ではないので3~4センチほど小ぶり、高さは15センチほど。演者が登場する橋掛かりや楽器を演奏する地謠座はない。
正面にはおなじみの松の絵が描かれている。能楽堂に松が描かれている理由は二説あり、一つは常緑樹の松は、どの演目にも支障がないということ、もう一説は、松は神の依り代だというものだという。
舞台は檜板が縦に敷かれている。舞台は水拭きすると木が痛むので「からぶき」するのだが、これは河原木さんの仕事だ。舞台に上がるときは必ず足袋をはく。これは、能舞台への敬意を表するためという。
足袋のようなスリッパを借りて舞台にあがってみた。滑り過ぎたりも止まってしまったりもせず、動きやすかった。足袋をはいていれば飛び跳ねても大丈夫とのことだ。
客席も、25席ほど椅子を並べられる。河原木さんの能舞台は、昭和56年に、父の山本正之さんが作ったものだ。正之さんは当時、観世流のセミプロとしていろいろな舞台に出演、活躍していて、お弟子さんもたくさんおり、練習のためにプライベートな舞台がどうしても欲しくて作ったという。
代々の由緒ある能のファミリーではないかと、伺う前は敷居が高かったのだが、河原木さんは、「私自身は、能はやったうちに入らないです」と笑う。「父が亡くなって、一度は潰そうと思ったのですが、もったいないしなあ」と思った。
「いろいろな方に使っていただけたら、舞台は生きているわけですし」。そんなことを考えていたら、4年ほど前に、三遊亭凰月さんという落語家と出会った。「能舞台で落語やっていいですか」と聞かれ、「どうぞどうぞ」ということで、定期的に落語会が行われることになった。現在、他には、三崎坂の途中に住む、芸大卒の観世流の先生、渡邉瑞子さんが教室を開いていたり、夏場は文化庁のバックアップで子どもに向けて能楽教室を開いたり、日本舞踊の練習に使われている。個人で使っている人もいる。
もっともっと使う人を増やしたいそうなので、ご相談くださいとのことだ。建物が壊され続ける昨今、能舞台は壊さないでずっと使ってほしいと願うばかりだが、河原木さんご家族もこの部屋で寝泊まりしたり遊んだり宴会開いたりして馴染んできて、「娘は、ここは潰さないと言っていますよ」と笑う。ほっとした。(稲葉洋子)